2015-08-05 第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第8号
シベリア出兵なんかだと、これは邦人というよりはチェコ軍団の救出ということでしたけれども、シベリア出兵なんかでもやっぱりそういう救出ということが最初に挙げられていたわけですし、田中義一内閣のときの山東出兵なんかの場合は日本人居留民の保護が目的とされていたわけですよね。その結果、シベリア出兵は七万人も送り込んでいるわけですよね。
シベリア出兵なんかだと、これは邦人というよりはチェコ軍団の救出ということでしたけれども、シベリア出兵なんかでもやっぱりそういう救出ということが最初に挙げられていたわけですし、田中義一内閣のときの山東出兵なんかの場合は日本人居留民の保護が目的とされていたわけですよね。その結果、シベリア出兵は七万人も送り込んでいるわけですよね。
○細野委員 これは大事な問題なので私も逃げずに私の見解を申し上げますと、世界征服という、この部分については、これは田中義一、戦前の総理の田中上奏文というのがきっかけとなっていて、GHQの中でも大議論があった、東京裁判でも取り上げられているという経緯がありますね。私も、久しぶりにそういうのを全部調べてみましたけれども、やはりこの田中上奏文の実在については、これは極めて怪しい。
おらが大将で知られる田中義一元首相の御子息で、十三期衆議院議員を務められた田中龍夫元文相、通産相は、私が政治上の父とも師とも仰ぐ方であります。 引退表明される一カ月前、私を伴い、明治維新の志士を輩出した郷里・萩の松下村塾で知られる吉田松陰先生の墓参りをいたしました。言わず語らず、後継者としてのあるべき心構えを示唆されたのであります。「至誠にして動かざるもの未だこれあらざるなり」。
もう一九二七年の田中義一内閣のころからこの議論をやっている。 特に、しっかりとこの国の形を見据えようと思ったら、私、違和感はありますけれども、民主党の平成十二年のこのパンフレット、私も自民党で道州制の第三次報告がまとまってからこれを見ましたけれども、すごくよくできていますよ。本当にわかりやすい。
戦前も、道州制への改革等、田中義一内閣とかそういったときに出たというような話も私は聞いたことがありますし、戦後も第四次地方制度調査会でこうした問題が取り上げられたという経緯もあるかと聞いております。 こうしたことも踏まえて、まさに百四十年ぶりに出た大臣が、百四十年近く変わっていないこの枠組みを変えていただきますようお願いを申し上げまして、私の質問を終わらせていただきます。
問題はその後で、その文章をそのまま言いますと、政党の人事介入は田中義一政友会内閣にかわる浜口雄幸民政党内閣のもとでも繰り返された、最後の政党内閣となる犬養政友会内閣で過度をきわめた、しょうけつをきわめた、結局それが、政党に対する国民そして軍部の不信感や反発というものを深めた、軍部の政治進出を果たしたことになったんだ、軍部独裁につながっていった。
それは御存じだと思いますが、例えば、第一次若槻内閣が田中義一内閣にバトンタッチした。それから、その次に田中義一内閣が浜口内閣にバトンタッチをした。その次に第二次若槻内閣が犬養内閣にバトンタッチした。その次に犬養内閣が斎藤内閣にバトンタッチした。斎藤内閣は岡田内閣にバトンタッチした。
○内閣総理大臣(麻生太郎君) 田中義一の話が先ほど引用されておりましたけれども、この統帥権干犯事件というのは歴史としてよく勉強しておられるんだと思いますが、旧帝国憲法に基づくところでありまして、今この種のことが起きないように、現憲法では統帥権干犯というような状態には起こり得ない、もうよく御存じのとおりだと思います。
○国務大臣(河村建夫君) 今回の田母神前航空幕僚長の件に対しては、先ほど来お話しのように、解任後、辞任の説得、同氏が拒否、迅速な懲戒手続がなかなか取れそうもないと、こういうこともあって十一月三日付けの退職、現実的に取り得る最も厳しい措置であったというふうに考えておるわけでありますが、これ、今御指摘の田中義一首相の件につきましては、あれは満州某重大事件のことをお指しになっていると思います。
実は、官房長官にちょっとお聞きしたいと思いますが、今も、総理がこの間寄稿された文芸春秋に東京裁判についていろんな論文が出ていますけれども、その中で田中義一総理、昭和三年ですけれども、張作霖の爆破事件を起こした河本大佐を軍法会議にかけられず、そして与党や軍の圧力に屈して行政処分だけに終わらせてしまったと。昭和天皇も厳しくこの田中義一首相を叱責されたと。
田中先生は私に後継指名をされて私が出てきたわけでありますが、その故田中龍夫先生の御尊父は故田中義一首相であって、いずれも私の郷里の萩市の大政治家、先輩であります。 そういった関係で、私は、田中龍夫先生のお住まいに学生時代からずっと出入りをしておりまして、要人やマスコミと対応される、東京の政治活動を見てきたわけでございます。
私これ調べたら、一番最初、一九二七年、田中義一内閣のときに全国を六州に分けて官選の知事を置く、そして州庁設置案というものを提案されたという歴史がある。これが恐らく一番最初やと思うんですけれども、実にそれから数えたら八十年の歴史があるわけです。
しかも、その人的な担保として、政友会が軍部の田中義一さんを取り込み、また司法権力の頂点にいた平沼さんと大変関係が深い鈴木喜三郎さんという元の最高検の検事長を入れてしまう。いずれも政友会の総裁になります。結果としてその意図が裏目に出てしまった。
田中義一首相が中国侵略計画を昭和天皇に密奏した文書、と記述しているが、中国側のねつ造だったことは、とっくに立証されている。」これはもうほとんど間違いなくインチキだとこれだけ言われているんですよ。それが中国の教科書ではこうやって載っているわけですね、きちっと載っている。それが日本の中国侵略の大きな根拠として、理由として説明されている。
○近藤政府参考人 委員御指摘のいわゆる田中上奏文なるものは、昭和二年に、当時の田中義一総理が天皇陛下に対して、日本は中国を侵略するべきだというふうに上奏をしたと言われている文書でございますが、その真偽のほどについては、専門家の間ではかなり否定的というふうに了解しております。
民政党総裁浜口雄幸が総理になったのは、政友会の田中義一内閣が、今回の日歯連のような汚職の続発、満州における事件、そして重要法案の流産で倒れた後でありました。 そのときの政友会は、なお議席二百三十九を占めていました。野党民政党、つまり浜口雄幸の政党ですが、百七十二、政友会は圧倒していたんです。議席数を見れば、現在の自民党二百四十九、民主党百七十七とほぼ同じであります。
○中塚委員 関東大震災のときだけではなくて、田中義一内閣のとき、先ほども申し上げましたが高橋是清大蔵大臣、この人が、全国の銀行が二日間休業する間に三週間のモラトリアム、支払い猶予令を発したということも記録に残っておりますから、災害だけじゃなくて金融システムの不安、何が引き金になるかというのはいろいろあるというふうに思いますけれども、そういった事例もあるようです。
後藤新平外務大臣のときだったと思いますが、軍の田中義一さんやなんかの行け行けどんどんをようやく収拾して、アメリカは二年で撤退してしまいましたから、その後ようやく収拾したんですけれども、尼港事件の後ですね。ですから、どうも私は、この何のため出兵、大義なき出師と言われたシベリア出兵を思い出して非常に背筋が寒くなるわけであります。
また、それは、昭和四年の田中義一内閣総辞職の苦き経験に基づくものであったとも言われております。 その証拠に、昭和天皇のもとで、御前会議は、昭和になりまして、昭和十二年から終戦に至るまで合計十五回開かれております。天皇は、全くと言ってよいくらい発言しておられません。
一九三〇年代に、幣原協調外交か、あるいは当時は田中義一内閣のもと軍が非常に強くなったわけですけれども、我々が、外交が防衛をきちっとコントロールできているかということも含めて、それはシビリアンコントロールのすべてじゃないと思いますけれども、そういう意味では、ケース・バイ・ケースでやりますということでほうっておく話じゃないと私は思うんです。 もう一度お答えできますか。
それから、これは、国会に答申が出された後、今先生の御懸念の問題、中央官庁、今あるものをどういうふうにしていくのかとかいうようなことが具体的になってくると思いますので、私は、昭和四年にできた、田中義一内閣ではなかったかと思いますが、今の官邸、ライトさんがおつくりになった大変価値のある建造物でございますから、そういうものもちゃんと残しながら、それからまた、今私どもについていてくださるような役所の方々も、
つくられたのが一九二七年、田中義一内閣、今から七十年ほど前であります。それはよくわかります。そういうことを言いますと、この国会だってそのころつくられておるものですから大変古くなっておる。あちこち水漏りの跡もあるようではありますけれども、補修してもっていけば、今までも随分補修もしておりますけれども、これから三十年、五十年は十分に使えるんじゃないか。
否決する理由は、台湾銀行の責任が明らかでないからこの法律は通せないということで、若槻内閣が倒れて田中義一内閣に移ったわけです。 それはいいのですが、実は、野党がその後この震災手形を処理しなければならないといって出した法案は、若槻内閣が出した法案と全く同じ。